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No.33

特にテーマはございません。日常で見たり聞いたり考えたことを、徒然なるままに。

ない、からこそ、ある、ということ

昨日の話しですけど、三菱一号美術館でやっている「浮世絵 Floating World  珠玉の斉藤コレクション」を観てきました。

浮世絵のなんたるか、も知らないニンゲンですが、観てきました。(何

 

 

この展覧会は3期構成になっていて、私が観たのは第2期。(第2期は本日8/11まで

主に葛飾北斎歌川広重の作品が展示されていて、私、北斎の赤富士(「凱風快晴」というのが正式な作品名だと、初めて知りました)が好きだなぁ、と思ってたのもあって、足を運んでみたのです。

 

 

で、初めて多くの浮世絵をしっかり観たのですが、その中で一番感心したのが、空白を使った表現。

山にかかる雲や霧だったり、海や川の波頭だったり、樹々に積もる雪だったり、つまりは白色の部分ですが、そこに色は付いてない。

これまで、西洋画の展覧会はいくつか観ててそのほとんどは油絵でした。

油絵は、キャンパス一面に絵の具を乗せるので(乗せないのもある、だったらゴメンナサイ)余白ってないですよね。

白色は白の絵の具を使っている。

 

同じ雲というものでも、浮世絵はないことで表現して、油絵はあることで表現している。

 

そこに雲を描けば、そこに雲を表現できるのは、すんなりわかります。

そこに雲を描かずに、そこに雲を表現するにはどうするか。周りを埋めるんですよね。

稜線の黒だったり、水の青だったり、葉の緑だったり。周りを埋めて、空白を浮かび上がらせる。

そこって、観る側に委ねられてるんじゃないかな、と思うんです。

何も描かれていないところに、何かあると思うのは観る側だから。

観るヒトがその空白に雲を連想するのか、霧を連想するのか。観るヒトの想像力で変わってくる場合もあると思います。

 

自分が表現したいことをそのまま表現する、という事は考えやすくて、それしか方法がないように思う時がよくありますが、ちょっと見方変えて、その外堀を埋めることで伝えることができるのかも。

うーん、誤解の方が多く発生するかな、、そういう揺らぎも一興、と思う余裕も必要なのかも。時と場合に応じて、という所でお茶を濁しておきますか。

受け取る側に委ねる、というのは、日本的なアプローチなのだとも思います。(俗に言う、行間を読む的な

 

そういうやり方に是非はありますけど、オプションのひとつとして身に付けておくと、ヒトとしての幅と奥行きとなり、引いては余裕とかにも繋がるのかな、と思います。よく考えていこう。

 

 

 

他にも、淡い色彩やグラデーションの絶妙さなど、個人的に好きだなぁ、と感じるところもあり、浮世絵にますます興味を持ったのでした。

現代で、浮世絵をやってるアーティストはやはりいらっしゃるのだろうか。ちょっと気になる。

 

以下、余談とメモ的に。

三菱一号美術館は建物もイイ雰囲気でした。洋館で浮世絵だったから、そのギャップも何かよかったです。

琉球八景に富士らしき山が描いてあってちょっとフイた。まぁ、どこからでも見えるイメージなんだろうね。

富嶽三十六景では「武州玉川」や「相州梅沢左」、「甲州石斑沢」が気に入りました。あと、北斎は「雪月花」のシリーズも良かった。

東海道五十三次では「大磯 虎ヶ雨」「箱根 湖水図」「蒲原 雪之夜」かな。「阿波鳴門之風景」ってのも、パッと実際の風景がイメージできてしっくりきました。

浮世絵はバリエーションあるのでモノによるのでしょうけど、展示してあるものの中では、という話で。

 

 

ではまた、その内。