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No.33

特にテーマはございません。日常で見たり聞いたり考えたことを、徒然なるままに。

「はだしのゲン」と原爆と戦争と

「はだしのゲン」過激描写理由に「閉架」に 松江 NHKニュース

 

昨日Twitterでこの話を知りました。

色々と思い、考えることがあったので、ここに綴ろうと思います。

 

 

はだしのゲン」は、小学生の時に学校の図書室で読みました。

その画は衝撃的で、かなりのショックを受けました。

だけど、何度も何度も読みました。

今思うと、それは"怖いもの見たさ"という気持ちも少なからずあったかと思います。

ただ、そう何度も繰り返して読む事で、原爆とは、戦争とはいかなるものか、ヒトがその中でどう振舞っていたのか、を知る事ができました。

 

知る事で考える事ができます。知る事は考えるきっかけになります。

今回の件は、そのきっかけが大人の許しがなければ得られない、子供達の可能性を閉ざしてしまうとても哀しい話だな、というのがこの事に対する最初の印象でした。

 

 

戦争って過激なものですよね。原爆のもたらす惨事って過激なものですよね。

それを表現するのに過激な描写を以ってせずして、なにをどう伝えられると言うのでしょうか。

確かに、この作品の画は過激で衝撃的だと思います。

ただ、誤解を恐れずに言うのならば、たかが画なのです。

 

原爆投下直後の広島の様相を、その悲惨さを、この作品の画がどれだけ伝えられているのでしょうか。

私は、10分の1も伝えられていればいいのでは、と思います。

現実はもっと無慈悲で悲惨で強烈だったはず。まぁ、体験してない私が偉そうに言う事ではないですけども。

 

 

この作品から受ける印象はどんなものだったか。

戦争に対する恐怖や嫌悪感。他の何を差し置いても、そういうものが一番強いのではないでしょうか。

戦争が良いとか悪いとか、軍隊が必要だとか不要だとか、そういう議論を見かけます。

そういう尺度ではなく、戦争はとても"嫌なモノ"、"怖いモノ"ですよね。

やらないに越した事はない。やる為に必要な軍隊も、ないに越した事はない。

平和主義だとか戦争放棄だとか、そういうお題目以前に、周囲の大切なヒトの命がいつどんな時に失われるかもしれない。失われる可能性が格段に跳ね上がる。そんな状況を、誰も望まないでしょう。

そういう恐怖、そういう状況に対する嫌悪感。そういう根源的な感情を、この作品は想起させてくれる。そう思います。

 

 

日本の戦争が終わって68年。もうその時を体験された方も多くはないでしょう。

先の戦争が何をもたらしたのか、どんな意味があったのか。必要な事だったのか。単に過ちだったのか。その中で使用された原爆は何だったのか。

それらの問いへの答えは、多分、ヒトそれぞれの形があるのでしょう。

ただ、その戦争があり、原爆があり「はだしのゲン」と言う作品が生まれた。

それを読み、戦争や原爆への恐怖、それらがもたらす哀しさを、子供の私は知ることができた。知って考える事ができた。

戦争が、原爆がどうだ、という話はとりあえず置いて、その事実を知ることはとても大切です。知った上でどう思い、考え、判断するかはそのヒト次第。

その知るという手段の中で、最も身近であったもののひとつがなくなる、というのは、これからの将来を考える上で、とても残念だと思います。

 

大人は子供達を教え導く役割なのかもしれないけども、大人の尺度で子供達の選択肢を、可能性を狭めることはあってはならない。

 

戦争といもの、原爆というもの、それらを実際に体験しないと知ることができないとしたら、それはとても哀しいじゃないですか。

だから語り継がねば、伝え続けていかねば、と思います。

その手段、選択肢はあればあるほど良いのではないでしょうか。

 

 

とりとめなさ過ぎて整理ついてないですね、、ご容赦を。もっと考えないと。

ではまた、その内。

 

 

[追記]

事の推移は↓が詳しいですね。参考までに。

荻上チキ氏のはだしのゲン閉架騒動について - Togetter