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No.33

特にテーマはございません。日常で見たり聞いたり考えたことを、徒然なるままに。

言葉を繰る

つぶやき

俵万智さんのエッセイ「言葉の虫めがね」を読了。

 

言葉の虫めがね (角川文庫)

言葉の虫めがね (角川文庫)

 

 

前半「ダンボの耳から」と題して、現代の言葉について。

後半「言葉の味」と題して、様々な短歌について。

そんな構成。

全体を通して、言葉を繰る事を生業とされているだけあって、深く広く言葉を捉えていらっしゃるな、というのがよくわかる内容。

 

その中で、特に後半部分の印象が強かった。

 

私は、これまで短歌には積極的に触れたことがなく、教科書に載っているような有名な歌についてすら、よくは知らないままだった。

この本で、短歌とそれについての意味(解釈)を俵万智さんが書いていらっしゃり、そこに含まれる情報の多さに触れた。

それは、大きな驚きを伴うものだった。私がまず読んで受けとった何倍もの情報が、そこには込められていた。

57577というほんの31文字という表現の中に、大きく深い世界の広がりがある。

 

その広がりは、言葉から喚起されるもの。言葉から湧き立つもの。

額面通りの意味だけではなく、その裏に、奥に潜むイメージがどんどん膨らんでいく。

言葉の自由さ、それらに秘められた可能性。そういうものを強く感じた。

 

そして、考える。そんな言葉の可能性を、私はどう捉えていただろうか、と。

言葉は、曖昧だ。特に、日本語はその曖昧さが顕著だと言われる。

同じ言葉でも、ヒトによって、時によって、場合によって、受ける印象は異なる。

私は、その曖昧さからくる煩雑さを疎んでいたように思う。嫌いですらあったのかも知れない。

一方、短歌は、その曖昧さ、つまりは可能性を大いに好み、愛しているのだと思う。言葉を信じていると言ってもいいのかもしれない。

 

もちろん、言葉によって限定されたイメージしか与えない、という術も時には(主に、仕事とか仕事とか仕事とかでは)必要ではある。

ただ、常にそうである必要はどこにもない。

特に、ネット上などで好きに勝手に自らの胸の内を発するのに、何を気にすることがあろうか。

 

私は、どんな時も、どんな場でも、言葉を尽くしたがった。

誤解を、曲解を、文字通り恐れているかの如く、できるだけ単一な受け取り方しかできないように、がちがちに雁字搦めにしようとしていた。

本来、自由であり可能性に満ちた言葉を、狭量な自分の限界の中に押し込めて、無理やりにでも手綱を取ろうとしていた。

そして、それが叶わずに、大いに苦悩したりもした。

その腐心が、逆に、自分の伝えたいものを歪めたりしたこともあったのだろう。

言葉を大切に、とは思いつつ、その言葉自体の力を、少しも信頼してなかったのだろう。その力は、私の認識が及ぶ範囲を、容易く超えていたというのに。

 

もう、そんな事をする必要は、ないのだと思う。

自分が思ったことを、感じたことを、自分が繰れる中で最も相応しい言葉に託すことができれば。

ストレートに表す。まずは、そこから。

それを受け取った誰かが、そのヒトの中で響かせていく。そして、言葉は自由にその可能性を発揮する。

そこで何かが通じれば、それは嬉しい。そこで何かが違えば、また言葉を繰る。そして、どんな響き方をするのか耳を澄ませる。

 

打って響く。その響く様にはヒトの数だけパターンがあるんだろう。

その事に、今、とてもワクワクしている。

 

色んな伝え方ができたら良い。色んな表情に見えたら良い。

 

あなたの笑顔も、澄まし顔も、涙を浮かべた顔も、怒った顔も、どんな顔もとても素敵だから。

その全ての顔があなたで、その全ての表情であなたが成り立っていて、そこに心惹かれたのだから。

だから、私もそうでありたいと思ってるんだ。

 

顔の表情と同じように、言葉ででも多様な表情を見せる事ができたなら、やはり、それは魅力的なんじゃないかな、と今は考えている。

気付けた。だったら、これから変えていけば良い。

 

 

ではまた、その内。