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No.33

特にテーマはございません。日常で見たり聞いたり考えたことを、徒然なるままに。

"消費"するよりも"消化"したい

これまた、先日帰省した際に友人と飲んでた最中に、ひょんな話の流れから戦争の話になった。

詳細は省くけど、友人からはかなり深く衝撃的な話を聞けて、ちょっと涙ぐんだりした。

私は私で、以前のエントリ↓に書いたような話をしたり。

 

そうやって話をしている中でちょっと頭に浮かんだことは、

「今、こうやって話してる内容を、どれだけ先まで覚えているのだろうか」

という事。

 

戦争に限らず、震災や痛ましい事件やそういう類の事について、節目ごとに

「忘れてはいけない」

というメッセージが強調される。

そういうのを目にする度に「ああ、またか」と思う。「何でこんな事を忘れられるの?」とも。

でも、実際に忘れるヒトは居るワケで、そして、そういうヒト達が増えてるのではないか、という気もする。

 

それは何故か。

 

ちょっと話は大きくなるのだけど、今は消費社会のなれの果て、みたいな位置にあるのではないかなと思う。

大量にモノを生産し、大量にモノを消費する。

そのシステムは、初めは形あるモノを対象とする場合が大多数だった。それが、次第に形の無いモノにも波及してきた。

情報や感情までも、次から次へ消費していくサイクルに組み込まれている。その傾向がどんどん強くなっているように思う。

 

私はTwitterをよく使ってるけども、これはその最たるもので、膨大なツイートが、今この瞬間にも発せられ、誰かのTL上を流れていく。

時たまバズったり炎上したりというネタも、すぐに他の話題に取って代わられ、次から次へとっかえひっかえされる。

消費して消費して消費し尽くされる。後には何も残らない。

 

そう。忘れ去られる。

 

皆が皆、全部が全部、ではないけども、そうやって消費されるモノがどんどん増えているように思う。

その延長線上として、戦争や震災や事件が、単なるコンテンツとして消費されているようにも思う。

節目毎に盛り上がって、それが過ぎ去った後に何が残っているだろうか。

 

逆に、ずっと忘れないヒトも居る。

そんなヒトは何が違うのか。それは、消費ではなく消化しているという所じゃなかろうか。

 

消化、という言葉は、食べ物を摂取して消化吸収して血肉とする、というイメージがある。

自分の中に留める。つまりは、忘れない。

そのモノ自体は消えるのかも知れないけども、自分の一部として形を変えて残る。

飲み込み、噛み砕き、吸収し、自分に組み込む。そうできれば忘れないはず。

 

今年は終戦から70年の節目で、アチコチで色々と先の戦争について言及されるはず。

そして、恐らく、まだまだ知らなかった当時の事実を目の当たりにする事もあるはず。

それらに接した時に、飲み込んで噛み砕いて消化して血肉にする、というように振る舞えればいいかな、と今は考えている。

 

そういう大仰な事柄に限らず、どんな物事でも自分が触れるのであれば、消化して何かしらを吸収したい。

消費する、という軽さとそれに適応したコンテンツは、それはそれで面白い部分もあるから、そういう楽しみ方もしたい。

と、どっちかに傾き過ぎずにバランスをとって、と、毒にも薬にもならない所で〆ておきます。

もっと考えたい話です。

 

 

最後に。

私がそうなった経験が無いので、当事者の立場とかを一切考慮できてない書き方になっています。

いくら想像を膨らませたとしても、戦争や震災や事件に実際に遭われた立場に在るヒトの心情を斟酌するには及ばず、対岸からの視点しか持てませんでした。

そういう部分で、これを読んで気分を害された方いらっしゃいましたらごめんなさい。心よりお詫び申し上げます。

 

 

ではまた、その内。