No.33

特にテーマはございません。日常で見たり聞いたり考えたことを、徒然なるままに。

「悪の教典」を読みました -"恐怖"の描かれ方について-

最近、積読の消化が進んでおります。良いことです。

その流れで、貴志祐介著「悪の教典」を読み終えました。

 

 

 

この作品は、いわゆるサイコパスによる大量殺人の物語。

映画化もされており、そちらをご覧になった方もいらっしゃるでしょう。

すごい大雑把に括ると、"怖い話"の部類と言えるでしょうか。

私も、そういう先入観でこの本に取り掛かりました。

 

でも、そうではなかった。怖くはなかった。

いや、そんなはずはないのですよ。とある高校の教師が、自分の担任するクラスの生徒を殺しまくる。

こんな話、怖いはずなのです。でも、そうではなかった。

 

それは何故か。ちょっと考えてみます。

 

この本の主人公。それは大量殺人の犯人でもありますが、彼はとても自己中心的で、その点は非常に人間らしい部分と言えます。

殺人の動機となるのは、如何に自分に利するか、自分の不利益となる存在を排除できるか、という事。

損得勘定の行き着く先が殺人。自己中心的な理詰めでヒトを殺す。

それは、(理解できるか否かは関係なく)想像の及ばない存在ではない。

 

例えば、現実に、このヒトが居なければな、と思う瞬間があったとします。

そこから想像を発展させていけば、凶行を押し止める知性・良心その他諸々を麻痺させてしまえば、犯人と同じ行動に至ることを想像するのは難しくない。(あくまで思考実験として、という意味合いですが

そして、話の中には犯人には共感能力の欠如という"読者とは異なる"属性がはっきりと明示されています。

だからこそ、より想像し易いとも言えるのではないでしょうか。この犯人は自分がブレーキを踏むところで躊躇わずにアクセル踏むんだな、と。

理由が推し量れる。つまりは、得体が知れる。

 

この話の犯人はサイコパス。つまりは、一種の怪物(モンスター)です。

怪物の正体が知れた場合とその正体が見当つかない場合、どちらがより恐ろしいでしょうか?

どんな怪物が相手かわかるより、正体不明の怪物に相対した時の方が、より大きな恐怖を感じませんか?

この作品では、怪物の姿が明確になったことで、恐怖感のかなりの部分が霧消してしまったように思います。

 

更には、犯人視点で話が進むという描き方にも、怖さを緩和してしまう作用がありそうです。

犯人視点の描写によってその内面・思考の流れまでも見て取れる。

傍から見ると不条理ではあるけども、犯人の中の理屈が掴める。よりはっきりと得体が知れる。

 

同じ著者の「黒い家」という作品がありますが、これは被害者視点で描かれています。

その為か、怖さ満点で面白く、とても好きな作品です。

また、伊坂幸太郎さんの作品のいくつかに、"真の悪人"と目せるキャラクターが登場しますが、それらは主人公から、または周囲から見た存在としてしか語られません。

その為、その恐ろしさが(主に語る者の印象として)ダイレクトに伝わってきます。

犯人視点の描写があると、対象の恐怖を大きく削いでしまうのでしょう。

(逆に、犯人視点だけど滅茶苦茶に怖い、という話があれば読んでみたいな

 

 

そんなワケで、この本の感想に戻ると、単なる娯楽作品としては十二分に楽しめました(話が話なのでヒトに依りますが)が、身の毛もよだつ怖い話(「黒い家」のように!)を期待して読んだ身には、肩透かしだった次第でした。

物語を読んで感じる恐怖、という1点に限って言えば物足りないな、といことを率直に思います。

どちらかと言えば、犯人とは根本的に行動原理が異なる事から、恐怖よりは嫌悪の方が強い印象を残します。

題名が「悪の教典」であるから、"悪"の印象が強いのは著者の意図通りなのかも知れません。

(でも、サイコ・ホラーって括ってあるから"恐怖"も大きな要素のはずで

 

んー、怖い話を期待していたからか、「黒い家」を読み返したくなっていますね。あれは、暗い部屋で読書灯だけ点けて読むとまた格別なのですよ。どこに仕舞ったっけな。

ではまた、その内。