No.33

特にテーマはございません。日常で見たり聞いたり考えたことを、徒然なるままに。

母方の祖母が亡くなった話

先月の出来事であるが、母方の祖母が亡くなった。

 

祖母はしばらく前から寝たきりになっていて、この4月に機会があって会いに行けたのだけど、ちょっと気を抜くとすぐ眠ってしまうような状態で、生命力がすっかり失われようとしているのが見て取れた。

この時、もう長くはないのだな、と確信を抱いたので、内心で最後のお別れをしていたのだった。

持って行った土産の菓子を、美味しそうに食べてくれたのが嬉しかった。

 

 

介護施設に入っていたのが容態が悪くなったことで病院に移りひと月ほど経った頃、医師からあと3日もつかどうかという話があったという。

そのタイミングで、母を含めたごく近しい親族は現地に集まり、入れ代わり立ち代わり病院に詰めるようにしていたそうだ。

それから1週間ほど経っての最期(もって3日と見立てた医者が驚くほどの頑張りだったらしい)だったので、集まっていた親族たちも、"その時"に対する心構えがそれなりにできていたように思う。

また、特に苦しむこともなく、長い眠りとほんの少しの覚醒を繰り返した末の最期だったことも、見送る側の負荷を軽くしてくれたのだろう。

葬儀に参列する為に向かった私が、祖母が住んでいた家へ着いた時、取り乱したような人はおらず、寧ろ、笑顔の多い空間が待っていたのが印象的だった。 

祖母もよく笑顔でいる人だった。

 

私の人生で初めて参列した葬儀だった。

祖母はクリスチャンだった為、葬儀はその作法に則って執り行われた。讃美歌というものは、慶弔を区別しないのか、など諸々の幾つかを興味深く感じたりもした。

冷静にその死を受け止める自覚を持ちつつも、やはり込み上げるものはあり、子供の頃に遊んでもらった懐かしい知人と話をしながら目頭が熱くなることもあった。

お別れの礼拝は祖母が通っていた小さな教会で催され、その会場が一杯になる程の人達が集まった。

親族の他は主に教会で関わりのあった方がほとんどで、私の知らない祖母の送った日々が偲ばれたりもした。

 

火葬に際して、棺に祖母へのメッセージを書いた紙を入れようという話になっていた。

何を書こうか、祖母との思い出を辿る。まず浮かんでくるのは数々の料理だった。

祖母から送られてくる荷物にもよく入っていた手作りのばら寿司やパウンドケーキ。毎回違うすごくテキトーな作り方ながらすごく美味しいお好み焼き。手間がかかって面倒だと母は作ってくれない酢豚。などなど。

私の食い道楽はこういう所から形作られていたんだなぁ、と微笑ましくも思う。

しかし、そういう話は既に従兄弟が書いていたのだった。同じことを書いても芸がないかと他のエピソードにまつわるメッセージを紙に書き記した。

その紙は祖母と共に灰になった。

 

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祖母が火葬された日の空は、こんな見事な秋晴れだった。

 

 

祖母は岡山の児島に住んでいた。本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の、本州側の根っこにある街だ。 (上の写真に見える橋が瀬戸大橋だ)

今はジーンズで有名になっているが、私の子供の頃はそれ程でもなく、ただ縫製の盛んな土地ではあり、祖母もその界隈に携わっていた。

祖母は母が子供の頃に夫を亡くしており(だから私は母方の祖父については話でしか知らない)、縫製の工場(こうば)を切り盛りして、女手ひとつで母とその姉を育て上げた人だった。

自宅と繋がったその工場は、雇っている人もひとりふたりくらいの小さいものだったが、材料である布の巻かれた大きな筒や家庭用とは違う形のミシンが並ぶ様は童心にはとても面白い場所に映り、よく潜り込んでいた。そこで帳簿の整理などをしている祖母は、いつもと違う仕事の顔をしていた。

ちょっとした枯山水のある立派な庭もあり、子供の頃の滞在中はその水やりが日課だった。祖母は菊の鉢植えを育てることに凝っており、10以上も並ぶ鉢の根元にちゃんと水を与えるよう注意されたりもした。

そんな色んな思い出の残る家に住まう人は、もう誰も居なくなった。

 

葬儀の翌日、児島の街をひと巡りした。祖母がよく連れて行ってくれたうどん屋はまだ残っていた。中華料理店と焼肉屋はもうない。

変わったもの。変わらなかったもの。思い出の答え合わせをするかのように、グルグルと歩いて回った。

そして、祖母の居なくなったこの街に私が訪れることはこれから何度あるだろうか、そんなことを自問しながらその土地を後にした。

 

 

すっかり思い出すことも少なくなっていた思い出をできる限り手繰った、そんな数日だった。

ではまた、その内。